ローマ4章
4:1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。
人が義と認められるのは信仰によることが三章で示されました。そのことを受けてここでは、具体的な例が示されています。そのはじめがアブラハムです。
4:2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。
アブラハムについて、彼が行いによって義と認められたなら、彼は誇ることができます。彼は、自分の力で義とされたのですから、自分の良い行いを誇ることができるのです。しかし、神の前ではそうではありませんでした。
4:3 聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。
そのことを御言葉によって証明しました。これは、神によってあらかじめ示されていたことであることを理解させるためです。それによって、信仰によって義とされることは神の一貫した教えであり、変わらない真理であることを示そうとしたのです。もし、ある教理が変更されたのであるとしたら、私たちは神の教えに全面的な信頼を置くことができません。いつその教理が変更されるかと心配しなければなりません。信仰による義は、初めから変わらないのです。
4:4 働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。
4:5 しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
そして、行いによる義と信仰による義を働きに対する報酬と、何の働きのない者が受ける恵みにたとえて説明しています。
働く者が受ける報酬は、当然払われるべきもので恵みではありません。働いた者の権利として受けることができます。ところが、神から義とされるという報酬を受けるほどに働くことのできる者はいないのです。たとえば、陶器を焼いてお店に納めて生計を立てている人は、完成した陶器をお店に納めなかったら報酬はいただけません。釜が壊れて焼けなかったということでは、報酬はいただけないのです。人は、轆轤で器の形を作ることはできても、火で焼かなかったら、陶器にはなりません。人の作品は不完全なままで終わるのです。
一方で、その店の人が情け深く、苦しんでいる人を助けてくれる人であったらどうでしょうか。陶器を焼く人が陶器が焼けなかったといって飢え死にしそうな時に、あの店の主人は、情け深いからきっと助けてくれると信じてお願いすれば、うわさ通り、必要なものを与えられて命を救うことができるでしょう。しかし、ある人は、この世知辛い世の中で、そんな甘い人はいないとその店の主人を信じないなら、恵みをいただけないのです。
このように、恵みは、信じる者に与えられます。たとえの中での話で、陶器を買い取る主人が、陶器師の窮状を知って、一方的に必要なものを与えるということではないのです。「信じるなら」と記されていて、恵みは、信じる者に与えられます。行いにはよらないで、信じる者に与えられるのです。
4:6 同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。
次はダビデの例です。これは、行いにはよらず義と認められることの幸いについて言い表された詩篇が引用されています。
4:7 「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。
4:8 幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」
これは、罪を犯したとき、その罪を赦され、その罪を覆われたという経験に基づく歌です。罪を犯しましたが、その罪を主が認めなかったのです。これはむしろ処罰を受けるべき者がその罪を赦されたことの幸いを言い表しています。
明らかに罪を犯したという認識のない人にとって義とされるということは実感のないことかもしれませんが、ダビデのようにたとい罪を犯してもその罪は赦されます。
4:9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と言っていますが、
4:10 どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。
次には、割礼と信仰による義との関係について記しました。割礼はアブラハムに始まりましたが、信仰によって義とされることが明確に示されているのもアブラハムです。信仰による義は、割礼の有無とどのような関係にあるのかを論じています。
4:11 彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、
4:12 また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。
アブラハムが義と認められたのは、割礼を受ける以前です。それによって、信仰による義は、割礼の有無に関係ないことが証明されます。割礼のない者でも信仰によって義とされるのです。そして、アブラハムが多くの国民の父となるという言葉がここでは説明の中に引用されていて、アブラハムが父であるというのは、アブラハムと同じく信仰によって義とされた人々の父であるという意味です。
そして、アブラハムは、割礼を持つ人々の父でもあります。割礼は、義とされたことの証印として受けたものです。アブラハムが、神様から契約の印として割礼を命じられましたが、それは信仰によって義とされた者と結ばれた契約であることが分かります。そこでは、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と命じられています。ですから、この命令は、義とされるための命令ではなく、義とされた者が受け継ぐ祝福を勝ち取るための命令であることが分かります。
アブラハムは、割礼を持つ者すなわちユダヤ人の父ですが、単に割礼を受けていることがアブラハムのように義とされるのではなく、割礼がないとき持った信仰と同じ信仰によって歩む人が義とされるのです。ユダヤ人も、割礼のあるなしに関わらず、信仰がなければ義とされないのです。
4:13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。
世界の相続人となるという約束は、どの約束を指しているでしょうか。
それは十六節の言葉から分かります。世界の相続人となることは、信仰によります。このことに関連して「『わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。』と書いてある」と引用されて、アブラハムがすべてのものの父であると説明されています。ですからここで指している約束は、創世記十七章四節から六節のことといえます。
創世記
17:4 「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。
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なお、世界の相続人になるというのは、この地上のことだけではありません。
ローマ
8:17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
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キリストと共同相続人となるとありますので、キリストが受け継ぐ万物の共同相続人ということです。
4:14 もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。
もし、相続人となることが律法を行うことによって達成されるのであれば、信仰は必要なくなります。信じたとしても関係ないことになります。信仰に対して与えられた約束は、律法の行いがなければ得られないのですから、どのような約束を受けていたとしても、実現されないことになります。
4:15 実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。
律法は怒りを招きます。そこには違反があるからです。律法に照らして、違反のない者はないのです。律法という基準が示された以上その基準にそむくことがらが明らかになります。律法は、むしろ人の不完全さを示すものです。
4:16 そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。
世界の相続人となるということは、信仰によります。信仰によって義とされた者が世界を受け継ぐのです。それは、「恵み」によるためです。信仰によらないと恵みでなくなってしまい、全ての人が受けることができるということにはならなくなります。しかし、恵みであるがゆえに、律法を持っている人だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々すなわち、割礼のないときに神を信じて義とされた人々にもその約束が及ぶためです。
ここで、律法を持つ人々も信仰によって義とされた人々のことを指しています。なぜなら割礼は、信仰によって義とされたことの印だからです。単に行いとして律法を守っていたとしても義とされません。彼らは、神を信じて義とされた上で律法を守る人たちでなければならないのです。律法を守るのは義とされるためではなく、神の民としての証しを保ち祝福を受け継ぐためです。
このようにアブラハムがすべての者の父であるというのは、「すべての信仰による人々」の父という意味です。
世界の相続人となることは、アブラハムにもその後の子孫にも適用されることです。さらには、律法を持たない人々にも保障されます。
4:17 「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。
アブラハムが信じた神は、死者を生かす神でした。
ないものとは、未だ存在しないものです。神様は、それをあるもののように呼ばれました。例えば、「あなたの子孫によって全ての国々は、祝福される。」と言われたとき、あなたの子孫は、まだ存在していませんでした。しかし、神様は、それが間違いなく存在するものとし、話されました。すなわち、未だ存在しない子孫をあなたの子孫と呼んだのです。これは神の予知を示す言葉です。
十六節の言葉にそって考えるなら、アブラハムを父と呼ぶあらゆる国の人々が未だ存在しないときに、アブラハムの信仰に倣う人々がたくさん起こされることを知っていて、その人々をあらゆる国の人々と呼びました。
「このこと」とは、「アブラハムの信仰にならう人々にも保証されること。」です。世界の相続人になることが保証されるということです。 世界の相続人となることは、信仰によるのですが、信仰による事柄を保証するためには、それなりの裏付けがなければなりません。それで、十七節で、神はそれを保証する能力があることを示しているのです。その一つは、死者をよみがえらせることです。これは、信仰の根本的な事柄です。初期の伝道は、死者(キリスト)の復活を延べ伝えることでした。義とされるのは、この方がよみがえったことを信じることにかかっています。もう一つは、予知です。未来の出来事を知っているからこそ、未来の出来事を保証できるのです。
この様な能力を持った方の前で、保証されるのです。
4:18 彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。
アブラハムの信仰の偉大さは、望み得ないときに望みを抱いて信じたことです。子孫が与えられるという約束を若い時に受けたなら、彼はやがて子が与えられると考えたでしょう。しかし、彼に約束が与えられたのは、詳しい歳は分かりませんがカランを出た七十五歳以降のことで多分八十歳ぐらいになってからで、夫婦の肉体的には限界を超えていました。いわば不可能と見える状況で信じたのです。
彼はあらゆる国の人々の父すなわち信仰の父といわれるにふさわしい人です。それに恥じない信仰を示したのです。すべての人々がアブラハムの信仰に倣って神を信じて義とされるのですが、全ての人が倣う信仰の姿を示したのがアブラハムです。「父となるためでした。」と記されているのは、全ての人の信仰の父としてふさわしいことを含めて記されています。
4:19 彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。
4:20 不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。
4:22 だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。
さらにアブラハムの信仰の偉大さは、百歳になってもその信仰は弱らなかったことです。
創世記
17:17 アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」
17:18 そして、アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前で生きますように。」
17:19 神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼と、わたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
――
この時、アブラハムは、自分とサラの体が子を産むためには死んだ者のようであることを認めましたが、信仰は弱りませんでした。この時彼が笑ったのは、不信仰の笑いではなかったと分かります。
彼は、笑った後で、疑問を持ちました。彼の得た結論は、奴隷ハガルから生まれた子もサラの子であるから、それはイシュマエルのことを言っているのではないかと。それを主に申し上げたときに、主は、明確に示しました。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。」と。アブラハムは、ますます子を産むことでは困難な状況で、主の言われたとおりに信じたのです。
4:23 しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。
信仰によって義とされることは、私たちも同じです。その信仰は、「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる」ことです。神が死者をよみがえらせたと信じる信仰は、アブラハムが不可能なことを信じた信仰と同じで、その信仰が義と認められるのです。
4:25 (その)主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえら(さ)れました。
この節は、前節とつながっていて、前節の「主イエス」を関係代名詞で受けて記述されています。本節の冒頭に補足してみました。ですから、この文の主題は、イエス様をよみがえらせた父なる神様を信じる信仰が義と認められることです。
本節の動詞は、いずれも受動態で記されています。その業をなした主体は、父なる神で、主イエス様に関しても父の業がとして記されていて、主題に沿ったものになっています。
「私たちが義と認められるため」という記述は、「イエス様をよみがえらせた父なる神様を信じることで義と認められるため」という意味で記されています。
なお、元の日本語訳では、イエス様がよみがえったこと自体に私たちを義とする要素が何かあるのように受け取れますが、そういうことではありません。血のように、身代わりの死というような意味があるわけではありません。罪の処罰をまぬかれるためには血の代価が必要ですが、それは主イエス様の十字架によって成し遂げられました。しかし、よみがえられたことには、罪を除くという要素はありません。よみがえりは信仰を要求しているのです。その信じた信仰のゆえに義と認められるのです。
その信仰は、イエス様をよみがえらせた方に対する信仰であって、神にはそれができることを信じることなのです。神が生きて存在されていること、そして、死んだ者をよみがえらせることができることを信じることなのです。それは、主イエス様の十字架の御業が事実であり現実のものであること、神は存在していて死者をよみがえらせることができることを明確に認めることなのです。たとい、「イエス様を信じます」と言い表しても、死者をよみがえられた神が実在すること信じなければ、義とされることはありません。
「よみがえられられました」の部分は、死に渡されたことと同じ構文で記されていて、受動態です。神がよみがえらせたことが強調されていて、それは、二十四節の「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる」ことを受けての言葉なのです。「主イエスがよみがえられた」と訳したのでは、文脈に合わないのです。
このように、神が主イエスをよみがえらせたことを信じることで義とされるのです。ですから、神は、どうしてもイエス様をよみがえらせる必要があったのです。
私たちの持つべき信仰は、イエス様が私たちの罪のためにしに渡されたことだけでなく、神がイエス様をよみがえらせたことを信じる必要があるのです。そのようにして、神が実在し、死者をよみがえらせる力があることを信じるのです。
・「死に渡され。」→直説法、アオリスト、受動態。
・「よみがえられました」→「よみがえらされました」直説法、アオリスト、受動態。